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悟りを開く三つの方法 / 惟覚和尚

 数息、参禅及び中道実相観は私・老和尚の三つの法門です。これらの法門は一切衆生の病を治癒する最良の薬でもあります。数息観を修めるということは体を温めるということで、参話頭は毒出しの下剤となり、中道実相観を修めるということは完全な大補薬となります。この三つの薬には相乗効果があり、個々に服用してもいいですが、それぞれ補い合い助け合う効果があります。

 私達の心にはたくさんの病がります。そのゆえ、たくさんの法門(処方薬)が私たちの病を治してくれるのだと仏様は説かれるのです。これらたくさんの法門をまとめれば、次の三つの方法で修行することとなります。

 

数息(観)

数息(観)の目的は、妄想を退治し心を静めることです。

 まずは「数息(観)」。なぜ息を数えなければならないのでしょうか?私達は普段心が乱れたり執着が強かったりすると、妄想も多くなりますので、(座禅して)息を数えることによって妄想を退治し、自分の心を制御・安定させる必要があります。最初のうちは、「一、二、三・・・九、十」と、ゆっくり息を数えることで心を落ち着かせ、慣れたら気持ちを静めて心身の平穏を感じることもできます。この心の平穏な状態は「定」の境地に達し、体を温め補うことにもなります。

 

参話頭

参話頭は、自己の「轉識成智」(諸識を転じて智慧となす)であり、自分の心に照らし、自力で迴光返照(まるで死の直前の束の間の元気な様子)を。

 自身の一生、乃至無量劫(むりょうごう)まで、すべての“種”を追い出せたら、これぞ「即身成就」(そくしんじょうじゅ)になります。

 「参話頭」は私たちの八識田の「種」を取り出すのです。「参」とは「迴光返照」が私たち第七から第八識の「種」を照り破り、「轉識成智」(諸識を転じて智慧となす)、先に話頭を見つけ出します。即ち話の前一念心。頭は一番始めに動いた場所です。

 どんな方法で「参話頭」をしますか?三つの順序がある、「提念」、「照念」と「参」です。

 皆さんの熟習の例で、まず仏号を三つ唱える。「アミダブツ」、「アミダブツ」、「アミダブツ」念誦したら、自分で思い出して、今の誦仏は誰なのですか。もしくちびるが念誦したのなら、寝ついた時はくちびるはなぜ仏号を念誦しないですか?もし心で念仏します、人が死んでしまったら、念仏の心はどこにいるのですか?

 疑問がありますね。それで「阿」という字が、この字はどこから出てきたのですか?そこが「頭」であります。「頭」を見つけたら、すぐ注意しましょう。注意は眼で見るのではなくて、すでに感受で、念頭はどこから浮んできたのですか。自分ははっきり分からなければなりません。そして、話頭のところに自然に専念して、話頭が疑われます。

 「誰ー?」もし一回目「阿ー」字を見つけないならば、二回目、三回目続けて問います。心は外に向かず内にたずねて、我々の一生事情を残らず照らし現れる時まで自分の心がカメラのフイルムの様に善念、悪念がこの生涯の是非善悪が全部映し出せれるのです。ただし、この現状を見ても決して執着しないことにします。此れ現状は虚しい、存在しないであります。ただ我々の八識田中に蓄蔵された種子です。その田中の種子が排泄された後、これが自分自身の「本来面目」です。参話頭は自分が「轉識成智」です。自分の心を照らし、自分が「回光返照」(かいこうへんしょう)、自分の生涯から無量劫(むりょうごう.限りなく長い時間)までの種子を追い出す。これが「即身成就」です。

中道実相観

実相は、外の面ではありません。実相は我々の心が無念、無住、無為の境界に到ったのです。

 三番目の修行は「中道実相観」。「中道」とは両側に沿わない只中です。「実相」とは本当の相形 。普通の人は、着 両側、しかも心は中に入り口を妄想しています。 これが虚妄の相です。実相ではないです。もし虚妄の相を離れば、その瞬間こそは実相です。私たちは良い思いが出る時、心の中に光明があります。だが、これは実相ではありません。なぜならば、善は只の一つの念頭です。この「念頭」が生まれろと言う事は、生まれる念頭があれば消滅もあります。有生と有滅とも実相ではありません。悪い事この念頭は実相ではありません。悪い念頭とは貪嗔癡慢疑邪見 この悪い念頭があれば、心の中を黒暗にします。黒暗とは、恐怖憂愁煩悩です。このまま行くと、将来は三途悪道に落ちで行きます。当然、これも実相ではありません。善念は良い境界ですが、これは有因と有果です。果報を使いましたら、夢も消えます。これが良い夢です。また、悪念は悪因の種です。悪報を受け取りましたら、この悪報も消えました。結局何も残ってないです。これが悪い夢です。なので、最高の実相の境界から見れば、善念も悪念、みなん夢の中のことです。修行するのは、二つの方法があります。

 先ずは、悪い夢を見ない先に善い夢を。悪い夢がなく、全部善い夢の時にも善い夢も執著せず最後に無夢になります。無夢は実相である。ある仏経云う:「先ず善が悪を捨てる。後に善また善を捨てる。」実相は外面ではありません。実相は我々の心が無念無住無為の境界に至る法門です。

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