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帰依三寶の解説(一)

「三宝は、苦海における舟である」

三宝に帰依することは、一般的に三帰依と言われています。仏教でいう三宝とは、仏宝・法宝・僧宝を指します。昔ある高僧が言っています。「三宝は、苦海における舟である。三宝は、火宅における雨露である。三宝は、闇夜における灯台である」と。この言葉は、三宝が私たちに無尽の恵みと慈しみを与えてくれるということを説明しています。

人間は、生きている間には、生(生まれること)・老・病・死・愛別離苦(愛する人と別れる苦)・怨憎会苦(怨み憎む人と会う苦)・求不得苦(求めるものが得られない苦)・五蘊盛苦(存在を構成する精神的・物質的な五つの要素に執着する苦)など様々な苦しみがあります。

人間は、生きている間には、生(生まれること)・老・病・死・愛別離苦(愛する人と別れる苦)・怨憎会苦(怨み憎む人と会う苦)・求不得苦(求めるものが得られない苦)・五蘊盛苦(存在を構成する精神的・物質的な五つの要素に執着する苦)など様々な苦しみがあります。「苦海無辺(苦しみの海は際限がない)」と古人も言っています。貧しい人は苦しみが多いのですが、富める人にも一様に煩悩があります。学生なら、試験の重圧から逃れたい…等のようにです。つまり、それぞれの家にはそれぞれの悩みがあります。性別、年齢を問わず、皆それぞれ煩悩や苦しみがあるのです。では、「苦」はどこから来るのでしょうか。それは、真理・実相(すべての存在のありのままの姿)を見極められず、心の中に煩悩や苦しみがあり、これらから解脱できないからであり、これこそが「苦」の根源なのです。仏法は、人びとが煩悩や苦しみから解脱するのを助けてくれます。苦から離れ楽を得たいと思うのなら、仏法の道理を拠りどころに修行することです。そうすれば、煩悩をはっきりと認識することができ、苦しみの中にいても心は清浄なので、常に心の乱れを防げる定の中にいられます。これこそが清涼浄土です。煩悩をはっきり認識できなかったり、法に気づかなかったりすると、安楽の地と言えども穢土となってしまいます。仏法を舟にして三宝が行う法要という舟に乗っていれば、生死の此岸(現実のこの世)から涅槃解脱の彼岸まで到達することができます。仏法という舟はたくさんあります。小乗仏教で四聖諦や十二因縁を舟とするように、大乗仏教の菩薩は六波羅蜜を舟とします。どんな舟に乗っても、衆生は苦から離れ安楽が得られ、世間の苦しみの海から解脱することができるのです。

 

帰依三寶の解説(二)

「三宝は、火宅における雨露である」

三界(一切衆生が生まれ、また、死んで往来する世界。欲界・色界・無色界の三つの世界)は火宅(炎に包まれた家)の如し。三界の中にいると、まるで炎に焼かれているようです。衆生の心の中には三本の火―飢餓の火・瞋恚(怒り)の火・淫欲の火―があり、常に衆生の心を燃やして心身ともに不安にさせます。瞋心(怒りの心)がひとたび起こったら心の中に怒りの火がつき、淫欲の心がひとたび起こったら身体が熱くなり冷静さが失われます。凡人は天女を見てはいけません。なぜなら天女はすばらしい美貌を持っているので、凡人がちょっとでも見るとたちまち欲を起こして淫欲の火に焼かれて身を亡ぼしてしまうからです。『楞(りょう)厳(ごん)経(きょう)』でも「色目行同名欲火、菩薩見欲如避火坑」と言っています。淫欲は確かに火と同じで、衆生の善根を火のように燃やしてしまいます。

「三宝は雨露」 衆生ははるか昔から、生死の輪廻の中にいて、いつも煩悩の火に焼かれ、まるで雨が一滴も降らない干ばつの灼熱の太陽の下、炎暑の苦痛にあえいでいるようです。この時雨が降れば、焼けつくような暑さはたちまち消え、大地に清涼がもたらされます。仏法は長い干ばつに降ってきた雨のようなものです。念仏や念法、念僧、念戒、念施、念無常…など種々の方便法門で煩悩を取り除き、心の中の三つの欲の火を消します。このような心が「清涼世界」です。

仏陀の時代のことです。提婆達多が名聞供養を貪ろうと、瞋恚の心を起こし仏陀に危害を与えたので、仏陀の身体から血が流れ出ました。その瞬間、地面が真っ二つに裂け、提婆達多はその場で地獄の猛火の中に落ちてしまいました。これは、私たち衆生の心が招きよせた結果です。内心の火―飢餓の火・瞋恚の火・淫欲の火―がなかったら、外在の地獄はすぐに消滅します。ですから、地獄の苦しみから逃れたいと思うのなら、仏法で心の中の煩悩という火を消し去る必要があります。そうすれば自性的な清涼浄土が自然に現れます。

 

帰依三寶の解説(三)

「三宝は暗夜の灯台である」 何が暗闇でしょうか。愚かさです。智慧がないことが暗闇です。正しい知見がなければ、まるで暗闇の中にいるように、終始、帰属する所がなく、頼れる所もありません。「愚かさ」というのは、因果の道理を理解していないことです。善を行っても善い報いがなく、悪いことをしても悪い報いがないと思い込んで、自ら因果を理解できないため、その一生で種種の間違いをして人生がずっと暗黒です。たとえ高い学歴があっても、因果の観念を持っていなければ、人との関わりで間違いを犯してしまいます。時には高い学歴の人ほど、間違いが大きく、前途を暗くすることもあります。仏法においては戒・定・慧が最も芳しく光明あるもので、悪をなし戒を破るのは最も穢く暗黒のようだとみなされています。悪名を後世に残すことを一般的に「遺臭萬年」といいます。中国の歴史上の人物に岳飛と秦檜がいます。岳飛は生前、強い忠誠心をもって国のために全力を尽くしたため、長く後世に名声を残しました。一方、秦檜は忠臣を殺害したため、死後も悪名を後世に残してしまいました。岳飛の墓は杭州の西湖の傍にあり、湖畔に岳飛の座像が建てられています。その前には岳飛に跪いている秦檜の銅像も建てられています。岳飛の像を見ると人びとは自然に心から敬意が湧き起こり、敬慕します。碑には讃嘆の言葉が刻まれています。一方、秦檜の銅像を見ると、穢いものがつけられ、長い年月が経ち、錆びて悪臭を放っています。この史実から、悪いことをすると「遺臭萬年」と言われるのです。仏法においては、善を修めることは最も香(かぐわ)しいことですが、戒定慧を修得するとさらに香しくなります。身語意が清浄であれば、徳行は香しいかおりのようになり、人を喜ばせます。さらに、成道し仏果を得れば、その香りはもっとすばらしくなります。徳行の香りは世間に満ち溢れるだけではなく、天上まで達し人天供養が受けられます。

 

帰依三寶の解説(四)

智慧ある人が最も光明であり、愚かな人は最も暗黒です。しかし、仏法は衆生の無漏智(すべての煩悩を離れた聖人の智慧)を啓発することができます。これにより、三界を出て、生死を悟り、煩悩を断ち、菩提を得ることができます。この智慧は世間でいう智慧よりもっと優れています。世間の智慧は方便の智慧で、仏法の智慧は絶対的な般若の智です。善悪・有漏法・無漏法・世間法・涅槃法が分別でき、第一義諦・真諦・俗諦を知ることができます。『維摩(ゆいま)経(きょう)』では、「善は諸々の法相を能く分別し、第一義に於いて不動成り。」と言っています。仏法の智慧があれば、人生の見方がもっと正しいものになります。

釈迦牟尼仏はすでに仏道を成就し、智慧は無上円満の所まで至り、宇宙のすべての道理について知らないことはありません。現代は科学が発達していますが、科学の知識領域はまだ仏法の境界を超越できていません。なぜならば、仏陀の智慧は円満最上で、世間の学問知識が仏陀の智慧に擬(なぞら)えることはできません。釈迦牟尼佛の時代に、ある婆羅門が仏陀の智慧はどれくらいあるのか測ってみたいと思ったので、ある日仏陀の所へ来て、傍にある一本の樹を指差して、「世尊!あなたはもう仏道を成就されたので、智慧は一番のはずです。この樹にはどれだけ葉っぱがあるのか教えてくださいませんか。」と言いました。釈迦牟尼佛はその時、何も考えずにすぐ葉っぱの数を言いました。婆羅門は聡明でしたが、葉っぱの数を知らなかったので、仏陀が言った数が正しいかどうかわかりませんでした。そこである考えを思いつきました。葉っぱを手当たり次第に掴んで、また聞きました。「今、樹の上にどれぐらいの葉っぱが残っていますか。」世尊は、「今、樹の上の葉っぱは七枚減りました。」と答えました。婆羅門が手を開けてみると、確かに七枚の葉っぱがありました。このことから、仏陀の智慧は最上円満で、誰一人仏陀を超越できないことがわかります。

 

帰依三寶の解説(五)

仏は三つの智慧(一切智・道種智・一切種智)を持っています。智慧円満の境地まで到達できたら、それが仏です。阿羅漢は空観を修め、見思惑(迷いや煩悩)を断ち、我空を悟り、「一切智」が得られます。菩薩は仮観を修めて、塵沙惑(俗世間の悩み)を断ち、法空を悟り、「道種智」が得られます。中道実相観を修め、無明惑を断てば、仏の「一切種智」を悟ることができます。

三智円明(三つの智慧が完全で一点の曇りもないこと)、これは皆が本来備わっている智慧です。たとえば、心を静かにすれば、たちまち霊感が湧いてきます。このことから霊感や智慧は外へ求めなくても、本来心の中に存在していることがわかります。ある小説家は霊感を探しにアフリカへ行きます。しかし、アフリカには霊感はありません。なぜならば、霊感は心の中から来るのです。しかし、アフリカへ行って、大自然と接し、心が落ち着き清涼になると、心の中に本来持っている霊感を引き出すことができます。これは、仏寺で荘厳な仏像を見たり、清浄な環境に身を置いたりすると、心も安らかで清涼になり、心の中に本来持っている智慧、功徳や善法などが自然に現れるのと同様です。逆に、俗世間の低俗な環境―酒場や風俗など…にいると、さまざまな雑念や煩悩が心の中に起き、それらに遮られ、智慧心が現れてきません。

仏法に「三因仏性」があります。一.正因仏性(本性としてもとから備わっている仏性)、二.了因仏性(仏性を照らし出す智慧、または、智慧によって発露した仏性)、三.縁因仏性(智慧として発露するための縁となる善い行い)、以上の三つの因縁がそろえば、正因仏性を啓発することができます。「暗闇の夜の中、三宝は灯台となす」、仏宝、法宝、僧宝の智慧は衆生の心を清涼にさせることができます。三宝は衆生を迷妄や暗黒から遠ざけ、生死の苦しみから解脱させ、さらに、仏陀のような三智円満の境地にまで悟らせてくれます。ですから、三宝は私たちが本来持っている智慧を啓発する清浄な外縁(外から力を与えて助けてくれる要因)で、言葉で言い表せないほど大きな恵みを衆生に与えてくれます。

 

帰依三寶の解説(六)

三宝の「宝」とは何でしょうか。世間の人が思っている宝は金銀財宝に他ならないが、このような財宝は使い切ることが可能です。しかし、佛法で言っている宝は世間の金銀財宝よりもっと貴重です。なぜならば、この宝は「取っても尽きることはないし、使ってもなくなることもありません。」

佛法の中では「世間の金銭財物は五家の共有物であり、常にこの五家に侵される」と言及されています。この五家とは、水害、火災、悪子、汚職官吏、盗賊を指します。世間の金銭財宝は、己が永久に持つことは不可能です。だから、お金があっても、喜んだりや傲慢にならないで、早くこの世間の有漏(煩悩が有る)の金錢財宝を使って布施や善行を行い、これにより無漏の財に変えて行きます。無漏の財は善い財、神聖な財で、人生の本当の財宝です。善を修め、良いことをなすのは善い財です。善行や良い事をすると、心は執着しません。段々とこの善い財は神聖な財になって行きます。これが無漏財というものです。無漏財があれば、生命は煩悩や苦痛の中から解脱でき、本当の安楽が得られます。

釋迦牟尼佛は、よく在家弟子に訓戒を与えました。世間の金銭財宝を五家が共有する以上、本当の宝ではなくなります。時には金銭財宝を持っていれば逆に不安をもたらしてしまいます。若しうまく利用しないと、自分に災いをもたらしてしまう可能性があります。だから、私たちはこの因縁をしっかりと攫んで、この有漏財を無漏の功德ある財に変えていきます。

今生、三宝に出会えることができ、佛法の道理に従って修行すると、佛法の智慧を悟ることができます。更に、このような智慧を使って善を修め、金銭財宝を善の方面で使う。善の因を播くと善の果が得られ、未来、自然に善の果報が得られます。このような果報は代々にわたって自分の身へついてきます、使っても尽きることがなく、泥棒に盗まれないし、水や火に壊されず、誰にも取られません。これこそ正真正銘の至宝です。

 

帰依三寶の解説(七)

佛法の中の三宝は意味の違いにより、次のように分けられます。「化相三宝」、「小乘三宝」、「大乘三宝」、「住持三宝」及び「自性三宝」です。

「化相三宝」とは、佛陀が衆生を教化する時に立てられた三宝相です。釋迦牟尼佛が道業を成就してから、鹿野苑において苦集滅道の四諦について説法され、五名の比丘を済度しました。この時釋迦牟尼佛は佛宝、四聖諦法は法宝、そして五名の比丘は僧宝です。これは佛門の中で最初の三宝で,別名「最初三宝」または「別體三宝」とも言います。なぜならば佛、法、僧の三宝は個別に成立しているので、それぞれその體相があります。(別體三宝はまた大乘三宝と小乘三宝に分けられます);「真實三宝」とも言われ、釋迦牟尼佛はもう佛果を成就しました。言われた四諦法は無漏の妙法です。比丘は五名ともすでに聖位を悟り得ました。その結果、真實の佛宝、法宝、僧宝になりました。そのため、「真實三宝」と名づけられました。

釋迦牟尼佛は、苦労に耐えて努力する修行を経て、最後に菩提樹の下で無上正等正覺を成就し、衆生を済度し始めます。佛陀最初は華嚴大法を説法し、大根機の菩薩を済度しました。それから鹿野苑へ行って五名の比丘を済度し、宣說四聖諦法を説法して、五名の比丘に悟りを開かせました。四諦は苦、集、滅、道四諦の諦理を指します。佛法の基本的な教義であり、大乘、小乘を問わず、皆四諦を根本とします。

五比丘とは、佛陀が悉達多太子である時に、宮殿を離れ出家修行をしていたので、父親の淨飯王が太子を連れ戻すために派遣した五名の大臣、即ち、若憍陳如、頞鞞、跋提、十力迦葉、摩男俱利のことです。五名の大臣は太子を探し出したが、意志の堅い太子を宮殿へ戻すように説得できなかったです。そこで、その場に残って、太子に追随し一緒に修行します。太子が道業成就した後、鹿野苑で済度したのがこの五名の比丘です。

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