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帰依三寶の解説(八)

「小乘三宝」は釋迦牟尼佛の一丈六尺の金身の応身(人々を救済するため、救済する対象の宗教の能力に応じた姿をとってこの世に姿を現した佛)を佛宝とします。四諦と十二因緣を法宝とし、聲聞と緣覺聖賢僧を僧宝とします。佛陀の応身は一丈六尺の長さがあります。金色の光が現れ、三十二相、八十種好を持っています。これは三大阿僧祇劫という長い長い時間を経て、福、慧を修め、やっとこのような相好(三十二相、八十種好)を得られました。いわゆる「三祇修福慧,百劫修相好。」と言うことです(三祇、百劫ともに時間の長さを指す)。

聲聞と緣覺聖賢を僧寶とします。聲聞聖者は初果須陀洹、二果斯陀含、三果阿那含及四果阿羅漢に分けられます。緣覺聖者は位を分けられません。「苦、集、滅、道」は四諦法宝です。「知苦斷集,慕滅修道」の真理をあきらかにします。現在受けている苦しい果報は過去に作った因です。もし、苦しみの原因を造らなかったら、將來自然に辛い結果を受けなくてすみます。苦しみを知り、再び苦しみの原因をつくらないのが「斷集」です。「集」が因であり、「斷集」をしたければ、修道する必要があります。佛法を確実にし、三十七助道品…を修めます。佛道を修めると煩悩がなくなり、清淨涅槃を悟ることができます。「十二因緣」の最初は、無明です。無明(むみょう)は行(ぎょう)の縁によって生じたもの、行は識(しき)の縁によって生じるもの、識は名色(みょうしき)の縁によって生じたもの、名色は六入(ろくにゅう)の縁によって生じたもの、六入は触(そく)の縁によって生じたもの、触は受(じゅ)の縁によって生じるもの、受は愛(あい)の縁によって生じたもの、愛は取(しゅ)の縁によって生じたもの、取は有(う)の縁によって生じたもの、有は生(しょう)の縁によって生じるもの、生は老死(ろうし)・憂悲(うひ)・苦悩(くのう)の縁によって生じたものという十二がある。これは衆生が生死輪転の因果であるからです。すなわち、苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされます。それぞれが順序として相互に関連する十二因緣の道理を悟って、無明は生死輪迴の因であることを知り、無明をなくし、無明がなくなると行もなくし、行がなくなると識もなくし、識がなくなると名色もなくし、名色がなくなると六入もなくし、六入がなくなると觸もなくし、觸がなくなると受もなくし、受がなくなると愛もなくし、愛がなくなると取もなくし、取がなくなると有もなくし、有がなくなると生もなくし、生がなくなると老死もなくします。そうすると涅槃を悟ることができ、生死の中から解脫できます。だから「十二因緣」は、無明は行に縁たりより始まり、行は識に縁たり...老いて死ぬまで、これは生死流轉門であり、無明滅すれば則ち行も滅すので、行滅すれば則ち識滅す...老いて死に滅するまでが聖道還滅門です。生滅門の思惟から還滅門まで、このような順観(じゅんかん)と逆観(ぎゃっかん)の思惟は、最後に思惟できる心と思惟の理法と相応ができたら、無明を破り捨てることができ、「緣覺果位」を悟ることができます。

 

帰依三寶の解説(九)

「大乘三宝」は佛の法身、報身、化身の三身を佛宝とします。六波羅蜜を法宝とし、三賢十聖を僧宝とします。三身があるというものの、やはり一身です。法身は真如の身で不生不死であり、ただ法身こそが真實の結果です。修行して智慧が開けば、法身を悟ることができます。智慧が未明の時に見た法身は、まるで一般の凡人が見た三藏経典(経蔵、律蔵、論蔵)及び佛の舍利のようです。三藏経典は釋迦牟尼佛が説法した法であり,其の中に無量無辺の真理が含まれているので、法身の一種でもあります。もし経典道理に従って修行すれば、すべての煩惱を断ち、真如を悟り、自分にも本來備わっている心性がみえます。これこそ正真正銘の法身です。衆生が見た三十二相、八十種好を備えている佛は化身佛に属しています。化身に成ることもあれば壞れることもあり、生があれば死も必ずあります。これは不変の真理です。昔ある大徳が「初めあれば終わりもある」と言っています。初めがあれば必ず終わりがあります。だから、此の三十二相、八十種好の果報身は將來緣が尽きたら、必ず滅びるときが来ます。そこで、十方淨土の中の諸佛は、最終的にはやはり此の果報身を捨てて涅槃へ入ります。無上大涅槃は清淨法身であり、法身は滅びません。

 

帰依三寶の解説(十)

佛は法、報、化の三身があり、三身が具現していることは一身と同じです。例えば、太陽の光は佛の法身と同じ、太陽の体相や形狀は報身と同様で、太陽が大地の萬物に照射すると、色々な影が現れます。たとえば、樹に照らすと樹の影があり、山を照らすと山の影があります。よって太陽は種々な影があり、千差万別です。影は物によって相をおこすようになります。諸佛の化身は太陽の影と同じで、衆生が必要としている境地により、佛がその必要としている境地に変えて現し、衆生に利益を与えます。《普門品》の中には以下のように言及しています。觀世音菩薩は三十二応身があり、これらは全部化身です。化身は佛菩薩が緣に応じてあらわれ、因緣がなくなると菩薩の化身もこれと共に消えます。例えば、病気の時、觀世音菩薩に慈光加被(神佛が力を貸して守ってくれること)をお願いし、この時、觀世音菩薩は医者に変身して病気を治してくれるかもしれません。または夢の中で頭を撫でてくださったり、甘露を撒いてくださったりします。病気が治ると、顕われた境地も共に消失します。佛菩薩の化身は多いですが、衆生がどんな因緣でこの済度を得られるのでしょうか。佛菩薩はすぐに緣に伴って現われます。《普門品》の中で言ったように、衆生はどんな形で済度を得るべきなのか、直ぐにこの形で現れて説法をしてくれます。佛の化身は因緣に伴って現れるので、因緣が消える時に化身も消えます。ただ法身だけは消えず、始めもない終わりもありません。いわゆる「常寂常照」、即ち常寂常照が涅槃です。

 

帰依三寶の解説(十一)

佛道を学んで修行する者から一般人まで佛にお目にかかりたいと思っているが、本当の「佛に会う」ということはどう言うことでしょうか。釋迦牟尼佛は次のように弟子に教示したことがあります。「佛に会うということは外在的な佛に会うではなく、己の心の中の法身佛に会うことである。」法身佛とはなにか。一、佛は一種の真理であり、宇宙間に存在する有形無形の全ての物事や現象は全て因縁によって生じ、永久不変の自主性の本体はないことを知ることです。この世の全ての物事は因縁によって結びついた現象を構成しており、人為的に作られたものではないという真理が見えたら、即ちそれが法身佛です。二、己が本来持っている心性が法身佛です。本来備わっている法身佛を見たかったら、先ず、「觀空破執」をしなければなりません。一切の法は諸縁集まってその形相を成立し、縁が散れば、形相もありません。虚妄不実であることを心でしっかりと考え、実際に存在する物に対する執着を破り捨てることです。さらにもう一步「觀空不住空」まで進んで、萬法は空虚であることを知るが、真空の中に止まらない努力をし続けて、最後に本来備わっている真如自性の中へ入ることが即ち佛に会うことです。この一念の心性は本來が存在するもので、始めも無い終わりもありません。例えば、師父が此処で説法するとき、各位は説法を聴くというその心が自分の法身であり、始終存在しています。人の色身(肉体)は父母が生んでくれたものですが、この一念の霊知霊覚の心は本々自分に備わっているもので、父母が生んでくれたものではありません。法身は本来備わっていると言うものの、色身とは離れられません。そのため、法身を現したかったら、やはり色身を借りて修行しなければなりません。どうやって修めるのでしょうか。まず、色身が本当の自分という執着を破り捨てます。もし我執(人間には永遠に変わらない主体があるという誤った考え)を破らないと、目の前にあるこの霊知霊覚の法身を認識できないだけではなく、虚偽を真実と思ってしいます。我執を破り,更にもう一步進んで六波羅蜜を修めれば、福慧全てが備わっており、自然と本来持っている法身を自ら悟ることができます。

 

帰依三寶の解説(十二)

「大乘三宝」は六波羅蜜を法宝とします。六波羅蜜は「布施、持戒、忍辱、精進、禪定、般若」です。「波羅蜜」は梵語で、「度」と訳され、「彼岸へ着く」という意味である。菩薩の慈心は広く大きいので、眾生の苦しみを憐れむために,菩薩が六波羅蜜という船にのって、眾生及び自身を乗せて、生死のある此岸から、涅槃の彼岸へ連れて行ってくれます。そして、我らの心を自在、安樂の寂滅境地にさせてくれます。三賢十聖菩薩を僧宝とします。佛法の中,菩薩の階位は四十二階位や五十二階位等に分けることができます。たとえば、釋迦牟尼佛が道業を成就する時、最初は四十一位菩薩說《華嚴經》で、此の四十一位というのは四十一人を指しているのではなく、四十一種の果位の菩薩を意味しています。四十二階位とは十住、十行、十回向、十地、等覺、妙覺で、五十二階位とは初住の中に更に十信を開いたもので、これが五十二階位であす。三賢は十住、十行、十回向を指します。十住、十行、十回向まで悟ったら賢位に属します。初地菩薩から十地菩薩まで悟ったら聖位に属します。天台別教の中に言うように、真如法身が見えたら、「初地菩薩」と称して「摩訶薩」に属します。これが大菩薩の意味です。真如法身を悟るのは深さの違いがあるため、階位は初地から十地の区分があります。しかし三賢、初地或いは十地はいずれにしても、大乘の僧宝に属します。帰依三寶の解説(十三)「住持三宝」とは、釋迦牟尼佛が住世の正法の時に、佛陀の丈六金身が見えるだけではなく、佛陀自らが妙法を說くことを聴くこともできます。更にいたるところで菩薩、緣覺、聲聞等諸聖眾が見えます。現在釋迦牟尼佛はすでに涅槃入ったので、佛はもう二度と見ることができません。佛が說いた四諦法、十二因緣、六波羅蜜等諸法も經典の中からしか知ることができません。現在には大勢な羅漢が住世しています。例えば、迦葉尊者や賓頭盧尊者、十八羅漢等ですが、緣がある人しか見えません。総括的に言えば、いま佛、緣覺及び聲聞聖者に会うことは難しく、佛陀が自ら說く妙法も聴くことができません。それならば、現在は何を持って三宝とすればよいのでしょうか。これが即ち「住持三宝」です。「住持三宝」とは、釋迦牟尼佛の形相を金屬、木、石、紙張等で雕刻したり、絵に描いたりした佛像を佛宝とすることです。経蔵、律蔵、論蔵を法宝とし、具足戒を受けた比丘や比丘尼を僧宝とします。具足戒は具足沙彌(尼)戒、比丘(尼)戒及び出家菩薩戒という戒律です。此の三宝が世間に住持して、正法を長く伝わらせています。世間の最上の功徳であり、眾生がたくさんの功徳が得ることができ、福慧を豊かにします。そのため「住持三宝」と称します。帰依三寶の解説(十四)普通の人はあまり修行せず、本来の清浄な心という心性を悟らないため、清淨心は煩惱、執著に遮り覆われています。そのため、このような「佛像を佛宝、三藏経典を法宝、出家眾を僧宝」とする「住持三宝」しか見ることができません。もし修行を通して、この念心が清淨になると佛菩薩との間に感応を生じ、佛菩薩の化身が見えて来ます。この感応境地は外へ求めるのではなく、自性の清淨心で生じた功德妙用です。いわゆる「心淨ければ則ち佛土淨し」ということで、念心が清淨になったら、自然に佛菩薩との感応道交(仏と人間の気持ちが通じ合うこと)ができます。俗に「類は友を呼ぶ」と言われ、同じような性格や風習の似ている人はよく友達になります。例えば、文章を書くのが好きな人は文章を書くのが好きな人と一緒に集まり、将棋をするのが好きな人は同じ趣味の人と友だちになります。これらはみな業報でお互いに感応したためです。修行の上でも同樣の道理で、六度を修めると、自然に六度を修める菩薩と感応し、四諦法や十二因緣を修めれば、聲聞、緣覺聖人と感応します。そのため、佛法の道理に従って、この念心で努力し、心が清浄になれば、自然と佛菩との感応が生じます。

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